夏空叙事詩

物語について語りたい、たまに小説

映画感想ではなく、小説のような何か(1)

 推理小説やサスペンス映画でよくある、本の真ん中をくりぬいて銃とか薬とかを収納しているあれ。あれがやりたいと思い立ったはいいものの、曲がりなりにも本好きなので、好きな本の真ん中をくりぬくなんて真似は死んでもできないし、嫌いな本やどうでもいい本が(あったとして)それを切り取ることも性根が許さない。だったら、自分で破ってもいいクソみたいな本を作って、それを切りぬけばいいじゃないか……とこれを書き始めた。

 さて、まず調べるべきは、どのくらいの分量を書けば、切り取っても余裕がある本にできるのかということだろう。試しに指でこれくらいかな、という厚みを表現してみたが、感覚は10cmくらいだと告げている。だが、こういう感覚は大概当てにならないもの。本棚から適当な本を抜き出し、厚みを図ってみたら5cmくらいで十分だということがわかった。これは朗報。勝手に想定していた分量の半分くらいでいいという天啓が降りたわけで。その本が大体600ページ。1ページあたり600文字が大体の形態で共通らしいので、それを計算すると……36万字。

 これは意外といけるかもしれない、と私はこのあたりで思い始めた。中学校時代の一番文字を書いていた時代の創作物の総分量はおおよそ80万字以上。というかそれをもう本にしてしまえばすべて解決なのだが、あれもそれなりの思い出がこもった作品なのでそれはやめておこう。ということで、この駄文は現時点で600文字。これで既に駄文が1ページ生まれているという作業進捗に背中を押されつつ、残りをどういう内容にするかを一考してみよう。
 まず、起承転結のある物語を書くことは諦めるべきだ。どうせクソみたいな文章を書き連ねていく予定に、綺麗な終わりを作っても無駄すぎる。それはそれとして、かねてから書きたかったものを書くのもいいかも。不倫から始まる官能小説、中世然とした騎士物語、人外が出てくる話、最後に主人公も何もかもバーンってなるやつ。これらをそれぞれ10万くらい書けば終わるのだ。ここで脈絡なく自伝を書き始めてもいい。人生で最初に書いた物語のことを、23歳になった今でもしっかりと覚えている。小学生のときの「こくご」の時間の特別課題だった。400字詰めの原稿用紙、あの何色とも言い難い薄い色で枠組みがされているやつに、教科書から好きな写真を選んで物語を書くことになったのだ。選んだのは、たしかなんの変哲もない猫の写真と月の写真。当時、リンカーン大統領の伝記を読んで、彼の偉業に心打たれていた私が書いたのはこんな話だった。主人公は名もないスラム出身の少年。親を失って一人生きている彼はある日路地裏で一匹の子猫を拾う。一人きりの少年と、一匹の猫。彼らは人生で最良の友となり貧しいながらも満ち足りた生活を送る。ある夜は二人で川に流れるボートに乗っていた。少年は丸い月を見上げながら、彼の秘めた夢を語る。それは、自分のような人がいなくなる世界、誰もが泣くことのない世界を作ることだった。その夢を聞いた猫は、きっと何もわかってはいない。わかっていないながらに、全幅の信頼の目で「にゃーん」と鳴いた。しかしそんな幸せは突然破られてしまう。少年の大切な猫は、ひどい人間たちの暴力で殺されてしまう。少年は動かなくなった猫を抱きしめただ泣いた。拙い物語の最後は、唐突に主人公が大人になった場面で始まる。主人公がいるのは、スラム街とは似ても似つかない豪華な調度品が並んだ部屋。そうして、彼のことを呼ぶ声がする。「リンカーン大統領」。そう、小さな少年だった彼は夢をかなえていた。彼は多くのことを成し遂げ、望んだ世界目指して力を尽くしていた。そんな彼の心には失ってしまった小さな親友が住み続けている。ホワイトハウスの窓を開け、彼はベランダからあの日と同じ月を見上げる。

 『「にゃーん」そんな声が聞こえた気がした。』

 終わり方は正真正銘このままだったと思う。原稿用紙10枚分くらいだろうか。当時の担任はものすごく私を褒めてくれた。彼女のおかげで、しばらく学級文庫のところに並んでいたあの紙束を、学期末に持ち帰るときも私は誇らしげに思っていたものだった。しかし、当時の私の夢はというと、別に小説家でもなんでもなかった。学校のアンケートやらなんやらで必ず書いていた私の夢は「大統領」。
 日本に大統領制度がないことも、スラム街出身の人間がアメリカ大統領になる難しさも、何もかもわからなかった私の、だからこそ自由な空想だった。今から物語を作るにあたって一番の制限になるのはその部分だ。あれから10年以上が経ち、一応の義務教育を終え、何が正しく、間違いなのかを学んだわけで、それなりに世界には規則やら法則やらがあることを知ってしまった私に、果たして原稿用紙の上でどれほどの「自由」が許されているのだろうか。だけど、少なくとも、深夜の国立大学で長い棒を振り回すことが何とはなしに許されていることを加味すると、なんだってしてもいいのだろう。だから、私が気を付けるべきは、たとえこの駄文が最後には切り取られる運命にあろうと、その過程で誰かを傷つける可能性があるのを忘れないことだ。いや、可能性ではない。言葉というものの鋭さを私はこの二十数年で十分に味わってきているのだから、誰かにナイフを振り下ろし続けるつもりで書いていこうと思う。まず、この駄文で時間を無駄にしている誰かがいるのがすでに問題なのかもしれないが。

 こうして書いている間にも、夜の居酒屋バイトの時間が近づいてきている。あと一時間もしないうちに、私は自転車を駆って、昨日の雨で一層春の気配を増した道路を街に下っていく。街に着くまでに、きっと変わったことは起こらない。往復欠かさずに挨拶しているお地蔵さんに軽く頭を下げて……ガチャで好きなキャラが出ますように、といった雑念が挨拶に混ざってしまうのを止められない。迷い猫を探していたけれど、無事に見つかった家を覗き込み、猫の姿があったら安堵と嫉妬を覚えて進んでいく。私も猫が飼いたい。この間通夜の提灯がかかっていた古い家の前を通り、まだ行ったことのないカフェの看板を今日も通り過ぎる。

 カーブミラーを頼りに危険な交差点をクリアすると、中にゴミ袋の影が見える廃墟を、壁のひび割れから一瞬だけ覗き込む。いつか誰かの目とかち合うかもしれない、そんな期待と恐怖を抱きながら。もし空気がよければマスクをそっと顎まで下ろそう。春の空気をふんだんに味わえるのは花粉症に罹っていない今のうちなのだ。この街の春は、初めてこの街に来た時をいつも思い出させる。実のところ、あの時と変わったのは、今年買い替えた自転車だけなのかもしれない。バイト先まではあと5分程度。正面の家の窓には、80%くらいの確率で出会えるお姫様がいる。窓辺に座りいつもどこかを見ている、知らない人の飼っている黒猫の横顔。ああいうのを深窓の令嬢――猫だから令猫と呼ぶんだ、とこの思い付きをいつかどこかで誰かに言ってやろうとずっと思っていた。今日もつれない、決してこっちを見てくれない黒猫に、存在の矮小さを突き付けられながら駅前の商店街を進む。

 商店街は今日もそこそこの人通りだ。老若男女、世界中の人が歩いている。左右の道にも世界中の料理を扱う店が軒を連ねている。なるほどグローバルだなあ、なんてテキトーに感じながら、残りの道は時間との勝負。いかに信号を回避していくかによって、今日のバイト準備時間の余裕が増えるのだ。少し曲がるたびに顔に打ち付けてくる髪をぺっぺと払いながら、最後の下り坂まで来ると、気持ちがバイトの終了時間に飛び始める。ああ、これからしばらく愛すべきベッド、パソコン、見たい映画、動画、読まなければいけない論文、書かなければいけない論文とはお別れなのだ。よっしゃ。バイトの準備は一瞬。導入したはずが壊れた機械のせいで手書きになったタイムカードの記入を終えると、さっそく店のドアの前に人影が。うちの店の扉が老朽化で重くなったせいで、大抵のお客さんは一回扉に手をかけて動かないことに困惑すると、開けるのを諦めてしまう。自動ドアかと思った、なんて言われたのも一度や二度ではない。「他動ドア」の貼り紙をすべきなのか。

 記念すべき本日一組目のお客さんは、少し派手目のメイクをした背の高い女性と、大学を出たばかりのようにも見える若い青年の二人組。ぱっと見は親子にも見えるが……先に入った青年の腕の隙間にすっと手を差し入れた女性の表情が、二人の関係を物語っている。うちの店はカウンターと個室が少し。二人を希望した個室に案内すると、おしぼりを届ける前に目の前でぴしゃりとドアが閉じられてしまった。……ごゆっくり。ベルで呼ばれ、ファーストオーダーを取れば、しばらくホールの私にやることはない。料理長のほれぼれするような手つきをカウンター越しにぼやっと眺めながら、「仕事」を待つだけの時間。こういう時は妙に耳がさえてしまうものだ。個室に入ったはずの二人の声が、まるで隣の席で話しているかのように聞こえてくる。とは言っても、全部がはっきり聞こえるわけではない。「……ってないわよ」「……さんには……までには」「わかっ……」「でも」ところどころ声量が上がっているのを聞くと、何やら二人にとって大事な話をしているらしいが、私は構うことなくドアを開ける。出来立ての料理は熱いうちに届けなければ。個室の扉を開けた瞬間に思いついた……今日は絶対カラオケに行ってやろう。入ると途端に張り詰める個室内の空気。痛いほどの沈黙の中、辛すぎる薬味の説明までを形式的に終えてドアを閉める。その閉まる扉のほんの少し残った隙間の向こう、あの廃墟のひび割れに期待していた目が。

 ああ、ついに出会ってしまった。

 気が付かなかった。青年の目は驚くほどに深い青をしていた。吸い込まれそうなほど、飲み込まれてしまいそうなほどの青は、あのセイレーンが棲まうと言われている湖の色そのもの。木々からこぼれる、ゆらゆら揺れる木漏れ日が、居酒屋の床を踊っている。いや、木目調だったはずの床はもうそこになく、あるのは暗く湿った地面。陽の光は、その淀んだ茶色を少しでも吸い取ろうとするかのように、いったりきたりしている。遠くで聞こえる鳥の声、聴いたことのないそれが不吉な響きを伴っている。目の前に広がるのは、湖のような青、ではなく、青々と水を湛えて静まり返った湖面だった。ああ、この青を待っていた。私は迷わず地面を蹴り、湖に飛び込んだ。

Satisfied with "Romeo + Juliet"

※This article is about movie "Romeo + Juliet." I translated my previous Japanese blog into English one to study English. The following is Japanese one. If you are good at English, please read it and give me advice.

(これは私の過去の『ロミオ&ジュリエット』のブログを、勉強のため英語に書き直したものです。以下が日本語版です)

scarlet-summer.hatenablog.com

 

CONTENTS

1.About movie


www.youtube.com

  • Released in 1996
  • The running time:120min
  • Directed by Baz Luhrmann
  • Produced by Baz Luhrmann,Gabriella Martinelli
  • Based on Romeo and Juliet by William Shakespeare
  • Starring

    Leonardo DiCaprio as Romeo

    Claire Danes as Juliet

2.Story (spoiler-free)

 In Verona Beach, two mafias, Montague and Capulet are in conflict for a long time.

 At one night, Romeo, son of Montague, met Juliet and they were fell in love. However, Juliet is daughter of Capulet......

3.My interpretation (with spoiler!!)

 Before I watched this movie, I read Romeo and Juliet in Japanese, again. I will think about this movie with comparing with two works. This article is too long and self-important. And I am not good at English...It may be the worst one.

1.Audacious new interpret! “Halfway?” modification!


 When you hear "the modern Romeo and Juliet", you can imagine some works. (In my case, I remember an Indian movie "Fanaa". It is a great movie.) Because the word of "Romeo and Juliet" has already become a synonym for a tragical love story which has the cause of hate. However! This movie is a literal modern Romeo and Juliet. The story of UK in Shakespeare's era (16c) is brought our present world as serifs and the scenario was.

 The modification created "a comfortable discord"!!

 The first scene of this movie, there were two buildings with their own signs on top and between them, huge Christ's statue (made of CG?) stood. I understood the movie's world view to see this scene and smiled instantly.

 One more funny point is the littleness of changing serifs in spite of the story set in modern world. Of course, many serifs have cut because of a shorter story size, but characters spoke as almost the same of Shakespeare's original script in aloha shirt with holding theirs guns ("Sword" company's) at the ready. Moreover, 'thy' and 'thee' of the Middle English was used in the movie. On the one hand a reverent priest had a tattoo of the cross on his back, but on the other hand he spoke a polished and beautiful words! I fell into a jumble! However, the structure was match curiously. Although we feel gross, we are interested in it......It is like a dangerous drug!

 

2.Mercutio


 One of the most remarkable changed characters is Mercutio who is Romeo’s best friend and cousin of Prince of Verona Beach. A clownish and an ugly man shows up as more unique one in the movie.
 Firstly, he is a black person. (The following is one opinion based on non-negligible problem in today. It is not expression of my own distinction and prejudice.)

 Although the two mafias top of Verona Beach are white person and most of the characters are white too, Mercutio and the Prince are only black person. What dose this strange casting express? Is it mere contempt for black person by casting as a clownish character? However, if a black one is casted as Mercutio, another black person will be casted as Prince who is ruler of town. As a result, a fictional town where Blacks dominate whites will be born. (This movie was released in 1996 when there was no Obama.) In fact, the casting was adopted, and the fictional Verona Beach was created. In a nutshell, Verona Beach is true imaginary town.
 I think the object of this strange casting is to create this insubstantial stage. I wrote in section.1, audacious new interpret and halfway modification already destroyed the natural scenario, and black Mercutio accelerated this destruction.
 Moreover, Mercutio brings homosexuality view to this movie. In Capulet house party scene, his disguise reminded me of the doctor who is from Transsexual Star. (The Rocky Horror Show is a great movie…Please watch it.) Male he disguised as female and sang female song. I imagine…did he love Romeo as male? The basis of my opinion scene is Romeo told Mercutio about his love for Juliet. (Actually, Mercutio mistook that Romeo loved Rosalind) In this scene, Mercutio abused Romeo’s love. Was his hatred for Romeo only because his love for Romeo? However, to refer to Mercutio’s curse for Montague and Capulet in his last scene, this opinion is overthinking…

 

3.Vile movie (This expression is too exaggeration)


 Although I wrote “a reverent priest” in section.1, is Friar Laurence a true “reverent” one in this movie? In the first place, it is doubtful that he connected with mafias. And he grows plants in the house on the roof. Are they normal ones? He said that they have potency to become a medicine or a poison. A medicine……a dangerous drug? (This may be overthinking too.)
 Drugs were used normally in this movie. I was surprised to see the scene Romeo tripped in Capulet party. A heart sharp pierced with arrow was printed in surface of the drug, and the figure seemed to be a metaphor of love. It is interesting this figure was on the drug. It is likely that love is only hallucination.
 This interpretation is not wrong entirely. Romeo was described as a character “the puppet of fate” in original scenario. His own characteristics did not appear, he just loved Juliet and died of his love. In short, he is simple man. For example, he killed Tybalt because Tybalt killed Mercutio…despite of Tybalt had become his relative. Such a Romeo, I can agree to that his love is only hallucination and this movie implied the banter.
 If my interpretation was true, a beautiful and cool Romeo will change meaningless person. But I will argue one more opinion that this movie tried to take away excessive veils of praise from “Romeo and Juliet” which is one of the most wonderful works in this world.

 (I think it is not easy to express it as “beautiful tragedy” because there was vulgar metaphor in original one.)

 

4. The tragedy ended as mere one case


 Original Romeo and Juliet ended with reconciliation between Montague and Capulet because of death of Romeo and Juliet. In a sense, it contained Christian lesson. (ex. Prince express the death was Heaven’s judgement.) This movie had Christian aspects, too. For example, there are many scenes of Christ’s statue and cross (it was sometimes lightened up), and even the title includes cross. ("Romeo + Juliet") This is quite that whole movie is screaming “This is Christianity!!” However, at the last moment, the lesson vanished. This point is an extremely difference between movie and original text.
 This movie story is about mere one case in the town. It expressed whole story was one topic of news by repeating same phrase on purpose at the beginning. In this movie, the tragedy changed to mere one case and it is not the story ended with “…and they all lived happily ever after.” because two mafias will never reach a settlement. Finally, the news finished and vanished as screen sandstorm just like people forgot the story.
 A masterpiece in this world, Romeo and Juliet … this movie changed it to such a vulgar and simple one by new setting and interpretation. However, this is not bad work. It is another precious one. Although Baz Luhrmann must love Shakespeare, I guess that this movie is a challenge to the great playwright.

 Is it wrong to find Luhrmann’s burning ambition in this movie which brought the middle age world to present and was rewritten Shakespeare’s drama into Baz Luhrmann’s?

完食『ロミオ&ジュリエット』

目次

1.映画情報


www.youtube.com

   ロミオ:レオナルド・ディカプリオ

   ジュリエット:クレア・デインズ

2.あらすじ※ネタバレなし

 ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』を現代版へと大胆にアレンジした作品。

 架空の都市ヴェローナ・ビーチを支配する二大マフィア、モンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家のロミオは侵入した仮装パーティで、キャピュレット家の娘ジュリエットに一目惚れするが……両家の憎しみがロミオとジュリエット恋物語の悲劇的な結末を招くことになる。

3.消化してみる※ネタバレあり

※映画を見る前にシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(中野好夫訳)を読み返してみた。比較しつつ、バズ・ラーマンのアレンジについて考えたい。いつにもまして偉そうだし長いので注意!!

①大胆すぎる新解釈! ”中途半端”な改変!

 現代版ロミジュリ、そう聞くと思い浮かぶ物語はちらほらある。(作者的にはインド映画『Fanaa』)既に「ロミジュリ」という言葉は争いが生む恋の悲劇の代名詞にすらなっているからだ。しかし!この映画は文字通り現代のロミオとジュリエットシェイクスピアの時代...16世紀のイギリスを舞台にしているはずの悲劇が、台詞やシナリオそのままに現代に蘇っている。

 その設定が生み出す”ちぐはぐ感”がなんとも最高だ!

 冒頭、巨大ビルの上に「モンタギュー」と「キャピュレット」が掲げられていて、二つのビルの間に明らかにCGなキリスト像が立っている時点で笑ってしまった。一瞬でこの映画の世界観がわかってしまう。

 舞台は現代なのに、セリフの改変がほぼゼロなのも面白い。もちろん、尺の関係で削っている台詞の方が多いが、登場人物たちはシェイクスピアの台本そのままの情緒あふれる台詞を、アロハシャツで銃(Sword社の銃)を構えながら滔々と語り続ける。中世の英語thyやtheeもそのまま。敬虔な神父が背中に十字架のタトゥーすら入れているのに、耳に入ってくる言葉はすごく美しい! もうほんとに意味が解らない。なのになんかしっくりきてしまう。気持ち悪いのに面白いこの作用、もはや劇薬です……(@_@)

 

②マキューシオ

 新解釈の中でも、特に注目すべきはロミオの親友であり街の太守の親戚であるマキューシオだ。原作で醜男として道化を貫く彼が、映画ではさらに特異なキャラクターとなって現れる。

 まず、黒人であると言うこと。(※以下はあくまでも現代における無視できない黒人差別を前提とした意見であり、私個人の偏見や差別意識の表出ではありません。)

 この街を支配する二大マフィアはいずれも白人であり、出てくる人物もほとんどが白人である。その中で、マキューシオと彼の親戚、つまり街のトップだけが黒人なのだ。この奇妙な配役は一体何を表しているのだろうか。道化であるマキューシオを黒人にすることによっての単純な蔑視? だがその設定を採用すると、自動的に街のトップも黒人になる。黒人が白人を支配するフィクション的な社会の誕生だ。(映画公開は1996年、オバマ大統領すらいない世界。)だがその設定が採用されヴェローナ・ビーチは産まれた。言ってしまえば、ヴェローナ・ビーチは正真正銘の架空の都市、あり得ない都市なのだ。

 その「あり得ない街」を産むことがそもそもの目的なのではないか? ①で書いた奇妙で中途半端な改変・舞台設定によって、すでにこの作品は破綻しているが、その破綻を加速させるための配役が黒人のマキューシオだったのだ。

 そしてもう一つ。マキューシオは同性愛的な要素をこの映画にもたらしているようにも思える。キャピュレット家でのパーティ、彼の仮装はかのトランスセクシャル星出身の博士を想起させる。(『ロッキー・ホラー・ショー』、最高なので観てください…)男性であるはずの彼が女性用の下着を身につけ、女性としての歌を歌う。......彼は男性として男性であるロミオに恋をしていたのではないだろうか? ロミオがロザリンドに恋をしていると思っているマキューシオは、憎々しげな表情でロミオを貶す場面が多い。彼は「かよわくない恋」を知っているのだ。ロミオへの台詞が、マキューシオの恋心の裏返しだとしたら? 最期、モンタギュー家とキャピュレット家へ向けた彼の呪いの言葉を思うと、考えすぎかもしれないが…...。

 

③俗悪的(は言い過ぎだけど)

 先ほど敬虔な神父と評したが、今作のロレンス神父は本当に”敬虔”な神父なのか? そも、マフィア御用達の神父というだけでも胡散臭い。彼は屋上の温室で植物を育てているが、果たしてそれは何のための植物なのだろうか? 薬にも毒にもなる植物。クスリにも……ドラッグ? (これもまた考えすぎかもしれない。)

 しかしこの作品には当たり前のようにドラッグが登場する。ロミオがキャピュレット家のパーティに侵入する時、キメ始めた時は正直びっくりした。錠剤の表面に描かれているのは矢に貫かれたハート。キューピッドの矢が射止める心臓......恋の比喩ではあるが、それが「薬」の表面に描かれているというのも興味深い。まるで、薬が見せる幻覚が恋なのだ、と言っているようなものではないか。

 この解釈はあながち間違いではないのかもしれない。ロミオというのは、原作ですでに「運命に踊らされる」だけの存在として描かれる。彼自身の個性は特筆されず、ジュリエットとの恋の末に死ぬキャラクター、つまりある意味単純な存在として描かれる。親友を殺されたからと、妻になった女性の従兄をカッとなって殺してしまう、そんなロミオだからこそ、彼がドラッグが見せるまやかしの恋に溺れた末に破滅した、と言われても、なんとなく納得できてしまうのだ。

 こうしてしまうと、あの美の化身レオ様演じるロミオが、なんとも「しょうもない」キャラクターになってしまうかもしれない。しかし、この映画はそもそも『ロミオとジュリエット』という最高の傑作を、俗悪的なところにまで落とし込んで、その過剰に美化されている部分を全て取り払っているのではないか? (原作時点で卑猥な隠喩も多いので、そもそも”美しい悲劇”と一言で表現できるものでもないのだが…)

 

④単なる事件に終わる悲劇

 『ロミオとジュリエット』は本来、若い二人の悲劇的な死がモンタギュー家とキャピュレット家の和解を招くまでがセットの物語だ。最後の台詞でも表現されているが、天罰の下った者たちが争いを反省し改めるという、ある意味でキリスト教的な教訓を含んでいる。もちろん、この映画でもキリスト教的な側面は健在だ。ことあるごとにイエス像を映して、十字架をネオンで光らせ、十字架のネックレスをキーアイテムにして、タイトルにすら+を入れて......作品全体が「キリスト教だぞ!」と叫んでいるようではないか。それなのに最後の最後、教訓だけが消え失せる。

 シナリオの改変はほとんどないこの映画だが、原作との最大の違いがそこだ。この映画は一つの街で起きた、ただの事件の話なのだ。わざわざ冒頭で同じセリフを二度繰り返してまで、この映画を一つのニュースの話題として表現している。これは単なる事件であって、決して両家が和睦に向かって「仲良くなりました、めでたしめでたし。仲良くするのは大事なことだね」な話ではないのだ。そしてそのニュースは、旧型テレビの砂嵐となって彼方へと消えていく。人々に忘れ去られたかのように……。

 世界でも名だたる傑作『ロミオとジュリエット』。それを数々の設定や絶妙な改変がここまで俗悪的・単純な物語へと変化させ、この映画はあっさりと終わる。だが決して駄作ではなく、また一つの最高の物語へと生まれ変わってもいるのだ。バズ・ラーマンシェイクスピアの物語を愛しているのは疑いようがない。他方、この作品はシェイクスピアに対する挑戦状のようにも感じた。中世の世界観を現代に塗り替え、シェイクスピアの戯曲をバズ・ラーマンの映画に仕立て直したこの作品に、バズ・ラーマンの既存のオマージュ・リメイク作品に見られるもの以上の、燃えるような野望を見出すのは、果たして間違っているだろうか?

完食『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

 今回から公式の予告映像を貼ってみました。

 ブログ、もっとこうしたほうが良いかも……みたいな意見あったら、言って下さい~(*´ω`*) 文章わかりにくいとか、ここもっとちゃんと言ってよ、っていうのでも大歓迎です!

目次

1.映画情報


www.youtube.com

   リック・ダルトンレオナルド・ディカプリオ

   クリフ・ブース:ブラッド・ピット

   シャロン・テートマーゴット・ロビー

2.あらすじ※ネタバレなし

 舞台は1960年代ハリウッド。人気のピークを過ぎたTV俳優リック・ダルトンは、自らのキャリアに日々不安を抱いて生活していた。そんな彼の友人クリフ・ブースはリックのスタントを長年務めてきたプロのスタントマンだ。焦るリックに、気ままな生活を送るクリフ……正反対の二人だが、二人はエンタメ業界を生き抜いてきた相棒同士。

 ある日彼の隣に引っ越してきたのはロマン・ポランスキー監督、その妻であり女優のシャロンだった。エンタメ業界の変化を牽引するような、新進気鋭の二人である。その変化に追いすがるために必死なリック……そして事件は1969年8月9日に起きるのだった。

3.消化してみる※ネタバレあり

①無駄のない無駄話?

 タランティーノ監督作品は他に『レザボア・ドッグス』しか見たことがないが、そんな私にも彼の作品の持つ独特の魅力がわかってきた。多分……彼の話は無駄が多い! 無駄、と言ったらマイナスなイメージを抱かせてしまうかもしれないが、言うなれば心地の良い無駄なのだ。

 まず、場面転換が自由。気づけば回想が始まっていて、その回想がすごく重要だったか? と言われたらそうでもない気がする。むしろ、もっと知りたい過去の出来事は他にあるじゃないか。(例えば妻殺しを噂されているクリフの過去とか。)見たいのはブルース・リーをボコボコにしてるシーンとかじゃないはずなんだけど、割とどうでもいい回想シーンが終わった後、なんとなく「まあいいか」っていう気分にさせられる。妙に悔しいな。

 そして移動シーンの始まりは絶対に車。車を運転する美形たちをしばし眺めるタイムが挿入される。射し込む陽光にきらきらと輝くその美貌に、運転を楽しむ表情の魅力的なこと! しかも音楽最高だからもう何も言えない! 無言の運転シーン集めたら10分くらいになる気がするけどな……なんでこんなに満足なんだろうなぁ。

 

②ハリウッドに生きる三人

 ノリのいいヒットナンバーに彩られながらも、落ち目の俳優の現実が映画全体に重い影を落とす。TV俳優として数々のヒット作に出演しながらも、いまや「悪役」として新人俳優に殴られるリックの心情を、ディカプリオの目が、険しい眉間が、血の昇った顔色が表現する。台詞を忘れて撮影で醜態をさらした後のトレーラーのシーンは、こちらまで悲しい気分になってしまうほどだ。繰り返されるカット、切り替わるたびにくるくると変わる心情が、彼の不安定さをも表す。

 対して、新人女優のシャロン。自ら、出演した映画の上映に足を運び、観客の反応にニマニマとしてしまう彼女はなんて幸せそうなのだろうか。そんな彼女は、いつかのリックの姿なのだろう。(あるいは、クリフと一緒になって過去の栄光を振り返っているときの彼だ)

 そしてクリフは本当に自由に生きている。リックの頼みをこなしたり、ヒッピー達と交流したり、犬と遊んでいたり……「気まま」という言葉がよく似合う。彼自身、リックが落ちぶれていくとともに仕事を失っているのに、である。

 このように、一つの映画でありながら、この作品はリック、クリフ、シャロン......三人の全く違う人生が並行して描かれる。リックとクリフは相棒同士だが、二人一緒のシーンよりは、二人が別々にそれぞれの生活をしているシーンの方が多い。シャロンは、単なるお隣さんというだけで、二人とは全く関わりのない生活を送る。

 そしてその三人の人生は、それぞれ「終わり」へと向かっていくのだ。いくはずだったのだが……。

 

③むかしむかし……

 1960年代のアメリカ社会の混乱、そして映画の元にもなっているシャロン・テート殺害事件〉など、背景にある「現実」はしっかりとこの映画に反映されている。タランティーノは現実社会から乖離した世界......幻想の世界を描いているわけではないのだ。

 それなのに、気づけば何もかもが都合よく解決した結末を私たちは迎えている。何とも不思議なことに。

 リックとクリフ、二人のエンタメ界での冒険は終わるはずだった。シャロン含めるポランスキー邸にいた4人は殺されるはずだった。だが、物語は急展開。侵入者のヒッピーたちは返り討ちにあい、犠牲者はゼロ。ポランスキー邸に招かれたリックは、新しい仕事を得るかもしれない。そうすればクリフも仕事をゲットだ。シャロンの子供はまもなく元気に生まれるだろう。なんとなく明るい未来が見えるではないか。

 "Once Upon a Time..." おとぎ話の始まりをタイトルに冠するこの映画は、本当におとぎ話のような終わり方を迎える。

 それを可能にしていて、かつ観ている私達にも納得させるのは、冒頭で述べた「無駄話」のなせる業ではないか。火炎放射器、クリフの強さ、などの直接的な伏線だけでなく、無駄話が挿入される隙がある物語という構成そのものが、現実から乖離させないまま、この物語をどこか空想物語の舞台まで押し上げていっているのだ。

完食『窮鼠はチーズの夢を見る』

 なかなか納得できるようなできないような映画でした!! 邦画、3年ぶり。自分だとやっぱり海外映画を見がちなので、オススメあったら教えてください(*'ω'*)

目次

1.映画情報
  • 公開:2020
  • 上映時間:130分
  • 原作:漫画『窮鼠はチーズの夢を見る』水城せとな
  • 監督:行定勲
  • 脚本:堀泉杏
  • キャスト

   大伴恭一:大倉忠義

   今ヶ瀬渉:成田凌

   岡村たまき:吉田志織

2.あらすじ※ネタバレなし

 理想の家庭を持ちながら不倫を繰り返す大伴恭一の前に、大学時代の後輩・今ヶ瀬渉が現れる。探偵の彼は大伴の不倫の証拠を握っており、それを妻に隠す代わりに大伴の身体を要求する。今ヶ瀬は7年もの間大伴のことを想い続けていたのだった。拒絶する大伴だが、次第に二人の関係は変化していき……

3.消化してみる※ネタバレあり

原作漫画未読ご了承ください。もし読んだ人いてオススメしてくれたら多分今だったら軽いタッチで落ちます...

①表情

 たくさんの場面で登場人物の表情に惹きつけられたが、中でも、冒頭7年ぶりの再会を果たした今ヶ瀬の表情が印象的だ。

 まるで犯罪者のような暗い瞳、底が知れないその瞳が真っ直ぐに「不倫をしている大伴」を射抜く。そして唇の片端をあげるような、曖昧な笑顔を浮かべるのだ。

 正直恐ろしいと思った表情だが、今思えばあれは最高にずるい切り札を手に入れてしまった時の自嘲の表情だった。不倫を妻に黙っていることを条件に、今ヶ瀬は大伴に何度もキスをねだる。ここで本気の拒否をしない大伴は、彼の「求められたら断れない」性格を発揮しているのだろう。その後も脅しは続き、離婚して傷心の彼を慰める形で、今ヶ瀬は大伴の生活へと入り込んでいく。


②時間

 この物語、時間の流れというのが非常に曖昧に描かれている。原作漫画の尺を映画に当てはめるための処置かもしれないが、時間の流れのスピード感に驚かされることが多かった。

 その一つがこの大伴の離婚から二人の半同居生活が板につくまでの場面だ。大伴が「ただいま」を言うまでに、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。今ヶ瀬はどれほど大伴のために料理を作ってあげて掃除をして洗濯までしてあげたのか。

 正直、ここはもうちょっと丁寧に描いてほしかった。二人は元々大学時代の先輩後輩でもあるが、それにしたって心の距離感というのは縮めるのが難しい。7年と言う圧倒的な時間が横たわると、再会してからの1日1日はどうしたって軽いものになるのかもしれない。しかし、その1日1日が、今ヶ瀬の愛であり、献身であり、ずるいだ。もっと大事にしてほしかった。

 (時間の流れに関して追記。上司と蕎麦屋で話した後、上司死ぬまでのスピード感も凄すぎて突っ込んでしまった。あん時蕎麦屋で一緒に食ってたの幽霊説まである)

 

③大伴ォ!(恨)

 大伴がほんとに最低すぎる! って言いたいところだが、彼はただただ優しい男だったのかもしれない。残酷な優しさを持つ男だ。彼は自分を愛そうとする者を拒まない。彼をなじった言葉が映画ではいくつも出てくる。

 離婚を切り出すとき大伴の妻が言う、『私が何かを言うのを待っている空気が、もう、気持ち悪いの』この言葉、意識していると本当にその通りなのだ。

 例えば、今ヶ瀬に対して「今ヶ瀬は俺のこと嫌っているのかと思ってた」と言う場面がある。(セリフこんな感じだったと思う程度)この時、今ヶ瀬の返答はないまま、映画は次の場面へと移る。

 正直めちゃくちゃムカついた。今ヶ瀬も呆れていたのでは無いかと思う。ここで「好きだったんですけど、何か??」って言って押し倒してもバチ当たらないレベル。大伴の表情が、もはやせせら笑っているようにも見えてくる。今ヶ瀬の感情をもっと思いやっていたら、こんな言葉は出て来るはずがない。

 何かを言うのを待つ、というのは他人の理解への諦めだ。結局大伴は差し出されるものに手を伸ばすという楽をずっとずっとしようとしている。


④窮鼠とチーズとチーズケーキ

 大伴の後輩、岡村がチーズケーキを持ってくる場面がある。このチーズケーキは岡村の大伴への好意の表れであり、誘いの合図でもある。このチーズケーキと、大学時代の大伴の元カノ・夏生の出す「ハーメルンのネズミ」というのがこの物語の題名に深く繋がっている。

 窮鼠、飢えたネズミはチーズを待ち続ける。大伴はチーズケーキ(相手からの好意)を待ち続ける。あの鉄筋コンクリート剥き出しのお洒落な部屋は、見ようによってはネズミの巣穴のようにも思えてしまった。(これは流石に考えすぎだけど)

 この物語、大伴と今ヶ瀬は再び出会って愛し合うようになるのだろうか? 原作でどうなるのかは知らないが、映画単体の続きを想像した時、わたしには二人が“幸せ”になる未来が見えなかった。どちらかと言えば明るい未来を想像させるような、陽の差し込んだ部屋、笑顔の大伴...…。

 だが...…洗って用意した灰皿は、まるで餌用の皿ではないか? 結局、大伴本人はずっと「待ち」の姿勢だ。愛することを覚えた彼は、それでも自分からは動かない。今ヶ瀬はまた彼の部屋を訪れるかもしれない。何気ない風に。しかし、その時もきっと彼は苦しい思いをするのだろう。信じてる、という言葉はまだ大伴のものにはならない。夢を見るだけなら簡単なんだぞ...…!

 『幸せとは、愛されることではなくて、誰かを愛すること』これは私が好きな映画『マイ・ルーム』に出てくる台詞だ。(※作中の言葉そのままではないです)これは一つの真理だと思っている。大伴は幸せとは何かをずっと履き違えているのだ。結局、最後まで履き違えたままなのかもしれない。

 
+α:性交渉※R18に近い表現あり

 ※以下の知識は全部創作物に基づいているのでなんのアテにもしないでください。実際のところはわからない...。あと言ってることキモいんで聖母の表情で読んでください。

 この映画、R15+ってマジ?? ってなるくらいには生々しい描写が多い。男女の性交渉のシーンはもちろん、男性同士の性交渉のシーンもてらいなく描いているのはすごくよかった......。潤滑剤をしっかりと垂らすシーン、ゆっくりと動いていた今ヶ瀬が、やがて激しい動きへと変わっていく。

 大伴が受け手に回った時の、どちらかと言えば苦痛が多そうな表情をしている顔。慣れていないのだというのがわかるし、それでもなお繋がることを選んだ、受け入れたということに感動してしまった。対する今ヶ瀬はやはり慣れているのだろうか。しっかり快楽を拾っている反応だ。これまた幸せそうだし私も幸せだった。

 そしてこれは日本人の腐女子がこだわりがちなのだが、この映画には固定の受け手というのが存在しない。左右の概念に拘らないのも良い。

完食『シークレット・スーパースター』

目次

1.映画情報
  • 公開:2017(印)、2019(日)
  • 上映時間:150分
  • 原題:Secret Superstar
  • 監督・脚本:アドヴェイト・チャンダン
  • キャスト

   インシア・マリク:ザイラー・ワシーム

   ナズマ・マリク:メヘル・ヴィジュ

   シャクティ・クマール:アーミル・カーン

2.あらすじ※ネタバレなし

 歌が大好きな14歳のインシアは、いつかスターになることを日々夢見ていた。しかし厳しい父親や貧しい家という現実が彼女の夢を夢のままにさせる。

 そんな彼女にある日、母親ナズマがPCを買ってプレゼントする。匿名&顔を隠して投稿されたインシアの歌動画は瞬く間に人気になり、世間は突然現れた「シークレット・スーパースター」に夢中になるが……

3.消化してみる※ネタバレあり

 元々映画を好きになったきっかけはインド映画でした。今回久しぶりにインド映画を見たのですが、また素敵な作品に出合うことができました。今日はグダグダ考えず、素直に好きだという気持ちを長々と綴っていこうと思います。

①魅力的な歌声

 何といってもやはり主人公インシアの歌声!

 透き通るような優しい声、風に乗ってどこまでも響いていきそうな軽やかさがすっと心に染みわたってくる。歌う時の表情も魅力的だ。細められた目、歌うことが本当に楽しいのだと伝わってくる笑顔。すっと伸ばされた喉から、何にも邪魔されず飛び出した、伸びやかな歌声が響き渡る。

 映画で最初に披露される歌、”Sapne Re”で既に私は彼女の虜になってしまった。田園風景を走る列車、そこに相応しく穏やかで明るい歌。同級生たちと共に一緒になって聞き入ってしまったものだ。

 歌詞は素朴で、彼女の夢見る気持ちが素直に綴られている。それもまた良い。同じフレーズが繰り返し繰り返し歌われることで、聞いている私達も自然とそのフレーズを覚え、気づけば一緒に「サプネレ~」と呟いている。そっと首を左右に揺らしながら。

 そんな幸せそうに歌を歌う彼女だからこそ、シャクティの録音現場は見ていて本当に辛かった。彼女の泣きそうな顔を見て一緒に泣きそうになってしまった。そもそも14歳にあんな歌を歌わせるのもどうなのシャクティ……自分が味わった忸怩たる思いを、同じように少女に押し付けてどうする……。彼女の歌になった後の”Nachdi Phira”はすごくよかった。あのCDどこで買えますかね?

 

②DV、男尊女卑……インドの社会

 グダグダ語らないとは言ったものの、この映画の主題を無視するのはあまりに始末が悪い。さすがアーミルさん、今回も重いのぶっこんでくる。この物語、スター街道を昇る少女の物語以上に、彼女の家族の毒巣をどう取り除くかの物語でもある。典型的亭主関白なインシアの父親、男尊女卑のインド社会......スーパースターの現実はあまりに酷い。

 いつも私にインド社会のリアルを教えてくれるのはアーミル・カーンの映画だ。『きっと、うまくいく』では若者たちが直面する現実(教育、就職、自殺問題)を、『pk』では宗教問題を。彼の作る映画はいつも単なる夢物語や悲しい話には終わらない。インド社会問題を内包し、ことあるごとに私たちに訴えかける。

 『ダンガル』でもスポーツ界を中心に女性地位というものを考えさせられたが、『シークレット・スーパースター』はスポーツ界、芸能界......そういった特別な世界ではなく、家庭という誰もが所属する可能性のある場所を舞台にしている。どこにでもありそうな一軒の家、その中で確かにDVが行われているのだ。

 一つ気になるのが、周囲の反応である。周りの家はDVに気づかなかったのか? 空港で声を荒げる男に、周りはおかしいと思わなかったのか? ……気づいていても、あえて無視を選んでいたのかもしれない。父親ファルークの母にあたる、インシアの祖母の反応が顕著である。彼女は自分の息子の横暴を止めることがない。絶対に知っているはずなのに。

 そもそも父親に男尊女卑の価値観を教え込んだのは彼女ではないのか? いや、彼女すら社会のクソッタレな伝統とやらに縛られた結果なのか? インシアたちが父親を捨てて空港を去るとき、彼女だけは父親ファルークの元に残る。男尊女卑の伝統(笑)から彼女だけは抜け出せなかったのだ。

 

③夢を見るということ

 インシアの台詞で一番好きなものを引用する。

『眠ったら夢を見ちゃう。毎朝目が覚めるのは夢をかなえるため。生きる意味って何? 夢がなきゃ、寝ても覚めても、生きても死んでも一緒。夢を見るのは本能だよ。奪わないで。』

 このブログの最初の記事で、『ジョー・ブラックをよろしく』を題材に生と死について考えているが、この物語では生きる意味の一つとして「夢」を掲げている。

 

scarlet-summer.hatenablog.com

  母親ナズマは自らの夢を娘に託した。娘そのものが彼女の夢になったのである。自分が手に入れられなかった自由を、娘に。

 その覚悟や強さ、優しさを歌ったのが"Meri Pyaari Ammi”だが、この歌は作られた時よりも映画の後半になってどんどんと味わい深くなってくる。母親の本当の強さにインシアが気づいていくからである。同時に彼女自身の驕った気持ちにも。

 しかし、私が母親を助ける……そんなインシアの傲慢だが強い思いが、現実という壁にぶつかり粉々になりながらも、その欠片を拾って夫に投げつける勇気をナズマに与えたのだ。まさしく彼女「たち」こそがスーパースターだった。

 

④EDエロい。アーミルさんは『デリーベリー』もそうだけど、たまに急にそういう路線にいくの何故なのですか。ED冒頭とかもはや喘いでません……?

完食『マイ・フレンド・フォーエバー』

目次

1.映画情報
  • 公開:1995年
  • 上映時間:97分
  • 原題:"The Cure"
  • 監督:ピーター・ホートン
  • 脚本:ロバート・カーン
  • キャスト

   エリック:ブラッド・レンフロ

   デクスター:ジョセフ・マゼロ

   リンダ(デクスターの母):アナベラ・シオラ

2.あらすじ※ネタバレなし

 隣の家の息子はエイズだから近づいてはいけない。

 そんな母親の言いつけを破って乗り越えた塀の先、エリックはかけがえのない友デクスターを得た。二人はエイズの治療法を求め、遠いニューオーリンズを目指して旅をすることになるが……

3.消化してみる※ネタバレあり

※穿ちに穿った見方をしています。書いた後、マジで自分最悪な見方したな?? って思ったので、感動を感動のままにしたい方は読まないでください。

 ナンダコレくだらない意見だ、って笑い飛ばせる人だけ読んでください。むしろ反論とか意見が欲しいのでコメント待ってます!

①自由なのは?

 どうしてもモヤついてしまうのは主人公エリックの反抗心、その行き先が“the cure”であるということだ。

 エリックの両親は離婚をしていて、母親は仕事を優先し自分の意見が絶対! 親の言うことを聞きなさい! な典型的な毒親である。デクスターの母親リンダがデクスターと触れ合う明るく和やかなシーンと、暗い部屋で煙草を吸うエリックの母親とエリックが会話をするシーンは嫌になるほど対照的だ。

 身体的に自由なのはエリックだが、心理的な側面を見たときにデクスター以上に不自由さを味わっているのはエリックではないか? エリックは常に抑圧された環境で生きている。その抑圧されたものが爆発する最初のシーンが、不良に石を投げる場面である。

 

②石を投げる
 スーパーの帰り道、エリックは不良に声をかけられた時点でおもむろに石を握りしめる。不良を説得したことで一度は場が収まったかに見えた……が、不良がデクスターに言った「同情するよ」という言葉で結局石を彼に投げつけた。

 果たしてこれはどういう感情で石を投げたのだろうか? 素直に読み解くなら、親友に同情を向けられたことに対する苛立ちだ。しかし、本当にそれだけだろうか?

 もちろんその怒りはあると思う。しかしどこかで、常にエリックは「理由」を探しているのだなと思ってしまった。”石を投げる“理由である。

 その後、彼は母親にキャンプ行きを命じられ、ニューオーリンズに向かうことを決意する。エイズの治療法を探すために……これはデクスターにとっては初めての大冒険だ。しかし、同時にエリックにとっての「逃避行」でもある。

 

③”My Great Escape

 結論から言ってしまえば私は、この映画で描かれている「治療法探し」全てがエリックにとっての口実なのではないか、と思ったのだ。

 もちろん彼の優しさに嘘はない。治療法を探したい、デクスターを助けたいという願いは本物だろう。だが、その優しさの発露のシーンと子供じみた無邪気さでお菓子や草を試すシーン、デクスターに無理をさせるシーンが、あまりにちぐはぐではないか。

 傾いた天秤の重い方...…彼の「デクスターを助けたい」という願いに隠れるようにして、彼自身の利益やエゴがしっかりと乗っている、そんなイメージを抱いた。(どんなイメージ)

 エリック自身はそのエゴに気づいているのか、それはわからない。しかし私は、気づいていたのではないか? と思う。

 デクスターが亡くなった後の車内、リンダに向かって彼はデクスターの死を自分のせいであると言い、「治療法も探せず……」と言いかける。それは当のリンダによって否定されるが、彼はあえて自分の責任について言及し、それを否定されたかったのではないか?

 エンドロール、挿入歌のタイトルが流れる。

”My Great Escape

 デクスターにとっても、エリックにとっても、短い旅が辛い現実からの逃避行であったのには違いない。しかし、そこに滲み出るエリックのエゴに、単純な「友愛の話」とは思えなくなってしまった。

 

④人間の物語

 散々くどくど水を差してきたが、最後に言いたい。

 これこそ人間の物語だ。とてもとても人間的だ。

 打算があるからといって、その友愛が全て嘘に変わるわけではない...…。それに打算とも言えないかもしれない。そこにはまだ幼いエリックの純粋な願いがあるばかりだ。デクスターを助けたい、自由が欲しいという願いが。

 デクスターの"the cure"は最後まで見つからなかった。しかし、エリックの友人を想う心が、彼自身の境遇の"the cure"までこの物語を導いてくれた。

 こんなに穿った見方をしていて何を、と思われるかもしれないが、私はこの映画が好きだ。死出の旅路に添えられる一足の希望や、二人の消えない友情には素直に泣くしかない。