夏空叙事詩

物語について語りたい、たまに小説

完食『ロミオ&ジュリエット』

目次

1.映画情報


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   ロミオ:レオナルド・ディカプリオ

   ジュリエット:クレア・デインズ

2.あらすじ※ネタバレなし

 ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』を現代版へと大胆にアレンジした作品。

 架空の都市ヴェローナ・ビーチを支配する二大マフィア、モンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家のロミオは侵入した仮装パーティで、キャピュレット家の娘ジュリエットに一目惚れするが……両家の憎しみがロミオとジュリエット恋物語の悲劇的な結末を招くことになる。

3.消化してみる※ネタバレあり

※映画を見る前にシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(中野好夫訳)を読み返してみた。比較しつつ、バズ・ラーマンのアレンジについて考えたい。いつにもまして偉そうだし長いので注意!!

①大胆すぎる新解釈! ”中途半端”な改変!

 現代版ロミジュリ、そう聞くと思い浮かぶ物語はちらほらある。(作者的にはインド映画『Fanaa』)既に「ロミジュリ」という言葉は争いが生む恋の悲劇の代名詞にすらなっているからだ。しかし!この映画は文字通り現代のロミオとジュリエットシェイクスピアの時代...16世紀のイギリスを舞台にしているはずの悲劇が、台詞やシナリオそのままに現代に蘇っている。

 その設定が生み出す”ちぐはぐ感”がなんとも最高だ!

 冒頭、巨大ビルの上に「モンタギュー」と「キャピュレット」が掲げられていて、二つのビルの間に明らかにCGなキリスト像が立っている時点で笑ってしまった。一瞬でこの映画の世界観がわかってしまう。

 舞台は現代なのに、セリフの改変がほぼゼロなのも面白い。もちろん、尺の関係で削っている台詞の方が多いが、登場人物たちはシェイクスピアの台本そのままの情緒あふれる台詞を、アロハシャツで銃(Sword社の銃)を構えながら滔々と語り続ける。中世の英語thyやtheeもそのまま。敬虔な神父が背中に十字架のタトゥーすら入れているのに、耳に入ってくる言葉はすごく美しい! もうほんとに意味が解らない。なのになんかしっくりきてしまう。気持ち悪いのに面白いこの作用、もはや劇薬です……(@_@)

 

②マキューシオ

 新解釈の中でも、特に注目すべきはロミオの親友であり街の太守の親戚であるマキューシオだ。原作で醜男として道化を貫く彼が、映画ではさらに特異なキャラクターとなって現れる。

 まず、黒人であると言うこと。(※以下はあくまでも現代における無視できない黒人差別を前提とした意見であり、私個人の偏見や差別意識の表出ではありません。)

 この街を支配する二大マフィアはいずれも白人であり、出てくる人物もほとんどが白人である。その中で、マキューシオと彼の親戚、つまり街のトップだけが黒人なのだ。この奇妙な配役は一体何を表しているのだろうか。道化であるマキューシオを黒人にすることによっての単純な蔑視? だがその設定を採用すると、自動的に街のトップも黒人になる。黒人が白人を支配するフィクション的な社会の誕生だ。(映画公開は1996年、オバマ大統領すらいない世界。)だがその設定が採用されヴェローナ・ビーチは産まれた。言ってしまえば、ヴェローナ・ビーチは正真正銘の架空の都市、あり得ない都市なのだ。

 その「あり得ない街」を産むことがそもそもの目的なのではないか? ①で書いた奇妙で中途半端な改変・舞台設定によって、すでにこの作品は破綻しているが、その破綻を加速させるための配役が黒人のマキューシオだったのだ。

 そしてもう一つ。マキューシオは同性愛的な要素をこの映画にもたらしているようにも思える。キャピュレット家でのパーティ、彼の仮装はかのトランスセクシャル星出身の博士を想起させる。(『ロッキー・ホラー・ショー』、最高なので観てください…)男性であるはずの彼が女性用の下着を身につけ、女性としての歌を歌う。......彼は男性として男性であるロミオに恋をしていたのではないだろうか? ロミオがロザリンドに恋をしていると思っているマキューシオは、憎々しげな表情でロミオを貶す場面が多い。彼は「かよわくない恋」を知っているのだ。ロミオへの台詞が、マキューシオの恋心の裏返しだとしたら? 最期、モンタギュー家とキャピュレット家へ向けた彼の呪いの言葉を思うと、考えすぎかもしれないが…...。

 

③俗悪的(は言い過ぎだけど)

 先ほど敬虔な神父と評したが、今作のロレンス神父は本当に”敬虔”な神父なのか? そも、マフィア御用達の神父というだけでも胡散臭い。彼は屋上の温室で植物を育てているが、果たしてそれは何のための植物なのだろうか? 薬にも毒にもなる植物。クスリにも……ドラッグ? (これもまた考えすぎかもしれない。)

 しかしこの作品には当たり前のようにドラッグが登場する。ロミオがキャピュレット家のパーティに侵入する時、キメ始めた時は正直びっくりした。錠剤の表面に描かれているのは矢に貫かれたハート。キューピッドの矢が射止める心臓......恋の比喩ではあるが、それが「薬」の表面に描かれているというのも興味深い。まるで、薬が見せる幻覚が恋なのだ、と言っているようなものではないか。

 この解釈はあながち間違いではないのかもしれない。ロミオというのは、原作ですでに「運命に踊らされる」だけの存在として描かれる。彼自身の個性は特筆されず、ジュリエットとの恋の末に死ぬキャラクター、つまりある意味単純な存在として描かれる。親友を殺されたからと、妻になった女性の従兄をカッとなって殺してしまう、そんなロミオだからこそ、彼がドラッグが見せるまやかしの恋に溺れた末に破滅した、と言われても、なんとなく納得できてしまうのだ。

 こうしてしまうと、あの美の化身レオ様演じるロミオが、なんとも「しょうもない」キャラクターになってしまうかもしれない。しかし、この映画はそもそも『ロミオとジュリエット』という最高の傑作を、俗悪的なところにまで落とし込んで、その過剰に美化されている部分を全て取り払っているのではないか? (原作時点で卑猥な隠喩も多いので、そもそも”美しい悲劇”と一言で表現できるものでもないのだが…)

 

④単なる事件に終わる悲劇

 『ロミオとジュリエット』は本来、若い二人の悲劇的な死がモンタギュー家とキャピュレット家の和解を招くまでがセットの物語だ。最後の台詞でも表現されているが、天罰の下った者たちが争いを反省し改めるという、ある意味でキリスト教的な教訓を含んでいる。もちろん、この映画でもキリスト教的な側面は健在だ。ことあるごとにイエス像を映して、十字架をネオンで光らせ、十字架のネックレスをキーアイテムにして、タイトルにすら+を入れて......作品全体が「キリスト教だぞ!」と叫んでいるようではないか。それなのに最後の最後、教訓だけが消え失せる。

 シナリオの改変はほとんどないこの映画だが、原作との最大の違いがそこだ。この映画は一つの街で起きた、ただの事件の話なのだ。わざわざ冒頭で同じセリフを二度繰り返してまで、この映画を一つのニュースの話題として表現している。これは単なる事件であって、決して両家が和睦に向かって「仲良くなりました、めでたしめでたし。仲良くするのは大事なことだね」な話ではないのだ。そしてそのニュースは、旧型テレビの砂嵐となって彼方へと消えていく。人々に忘れ去られたかのように……。

 世界でも名だたる傑作『ロミオとジュリエット』。それを数々の設定や絶妙な改変がここまで俗悪的・単純な物語へと変化させ、この映画はあっさりと終わる。だが決して駄作ではなく、また一つの最高の物語へと生まれ変わってもいるのだ。バズ・ラーマンシェイクスピアの物語を愛しているのは疑いようがない。他方、この作品はシェイクスピアに対する挑戦状のようにも感じた。中世の世界観を現代に塗り替え、シェイクスピアの戯曲をバズ・ラーマンの映画に仕立て直したこの作品に、バズ・ラーマンの既存のオマージュ・リメイク作品に見られるもの以上の、燃えるような野望を見出すのは、果たして間違っているだろうか?