夏空叙事詩

物語について語りたい、たまに小説

映画感想ではなく、小説のような何か(1)

 推理小説やサスペンス映画でよくある、本の真ん中をくりぬいて銃とか薬とかを収納しているあれ。あれがやりたいと思い立ったはいいものの、曲がりなりにも本好きなので、好きな本の真ん中をくりぬくなんて真似は死んでもできないし、嫌いな本やどうでもいい本が(あったとして)それを切り取ることも性根が許さない。だったら、自分で破ってもいいクソみたいな本を作って、それを切りぬけばいいじゃないか……とこれを書き始めた。

 さて、まず調べるべきは、どのくらいの分量を書けば、切り取っても余裕がある本にできるのかということだろう。試しに指でこれくらいかな、という厚みを表現してみたが、感覚は10cmくらいだと告げている。だが、こういう感覚は大概当てにならないもの。本棚から適当な本を抜き出し、厚みを図ってみたら5cmくらいで十分だということがわかった。これは朗報。勝手に想定していた分量の半分くらいでいいという天啓が降りたわけで。その本が大体600ページ。1ページあたり600文字が大体の形態で共通らしいので、それを計算すると……36万字。

 これは意外といけるかもしれない、と私はこのあたりで思い始めた。中学校時代の一番文字を書いていた時代の創作物の総分量はおおよそ80万字以上。というかそれをもう本にしてしまえばすべて解決なのだが、あれもそれなりの思い出がこもった作品なのでそれはやめておこう。ということで、この駄文は現時点で600文字。これで既に駄文が1ページ生まれているという作業進捗に背中を押されつつ、残りをどういう内容にするかを一考してみよう。
 まず、起承転結のある物語を書くことは諦めるべきだ。どうせクソみたいな文章を書き連ねていく予定に、綺麗な終わりを作っても無駄すぎる。それはそれとして、かねてから書きたかったものを書くのもいいかも。不倫から始まる官能小説、中世然とした騎士物語、人外が出てくる話、最後に主人公も何もかもバーンってなるやつ。これらをそれぞれ10万くらい書けば終わるのだ。ここで脈絡なく自伝を書き始めてもいい。人生で最初に書いた物語のことを、23歳になった今でもしっかりと覚えている。小学生のときの「こくご」の時間の特別課題だった。400字詰めの原稿用紙、あの何色とも言い難い薄い色で枠組みがされているやつに、教科書から好きな写真を選んで物語を書くことになったのだ。選んだのは、たしかなんの変哲もない猫の写真と月の写真。当時、リンカーン大統領の伝記を読んで、彼の偉業に心打たれていた私が書いたのはこんな話だった。主人公は名もないスラム出身の少年。親を失って一人生きている彼はある日路地裏で一匹の子猫を拾う。一人きりの少年と、一匹の猫。彼らは人生で最良の友となり貧しいながらも満ち足りた生活を送る。ある夜は二人で川に流れるボートに乗っていた。少年は丸い月を見上げながら、彼の秘めた夢を語る。それは、自分のような人がいなくなる世界、誰もが泣くことのない世界を作ることだった。その夢を聞いた猫は、きっと何もわかってはいない。わかっていないながらに、全幅の信頼の目で「にゃーん」と鳴いた。しかしそんな幸せは突然破られてしまう。少年の大切な猫は、ひどい人間たちの暴力で殺されてしまう。少年は動かなくなった猫を抱きしめただ泣いた。拙い物語の最後は、唐突に主人公が大人になった場面で始まる。主人公がいるのは、スラム街とは似ても似つかない豪華な調度品が並んだ部屋。そうして、彼のことを呼ぶ声がする。「リンカーン大統領」。そう、小さな少年だった彼は夢をかなえていた。彼は多くのことを成し遂げ、望んだ世界目指して力を尽くしていた。そんな彼の心には失ってしまった小さな親友が住み続けている。ホワイトハウスの窓を開け、彼はベランダからあの日と同じ月を見上げる。

 『「にゃーん」そんな声が聞こえた気がした。』

 終わり方は正真正銘このままだったと思う。原稿用紙10枚分くらいだろうか。当時の担任はものすごく私を褒めてくれた。彼女のおかげで、しばらく学級文庫のところに並んでいたあの紙束を、学期末に持ち帰るときも私は誇らしげに思っていたものだった。しかし、当時の私の夢はというと、別に小説家でもなんでもなかった。学校のアンケートやらなんやらで必ず書いていた私の夢は「大統領」。
 日本に大統領制度がないことも、スラム街出身の人間がアメリカ大統領になる難しさも、何もかもわからなかった私の、だからこそ自由な空想だった。今から物語を作るにあたって一番の制限になるのはその部分だ。あれから10年以上が経ち、一応の義務教育を終え、何が正しく、間違いなのかを学んだわけで、それなりに世界には規則やら法則やらがあることを知ってしまった私に、果たして原稿用紙の上でどれほどの「自由」が許されているのだろうか。だけど、少なくとも、深夜の国立大学で長い棒を振り回すことが何とはなしに許されていることを加味すると、なんだってしてもいいのだろう。だから、私が気を付けるべきは、たとえこの駄文が最後には切り取られる運命にあろうと、その過程で誰かを傷つける可能性があるのを忘れないことだ。いや、可能性ではない。言葉というものの鋭さを私はこの二十数年で十分に味わってきているのだから、誰かにナイフを振り下ろし続けるつもりで書いていこうと思う。まず、この駄文で時間を無駄にしている誰かがいるのがすでに問題なのかもしれないが。

 こうして書いている間にも、夜の居酒屋バイトの時間が近づいてきている。あと一時間もしないうちに、私は自転車を駆って、昨日の雨で一層春の気配を増した道路を街に下っていく。街に着くまでに、きっと変わったことは起こらない。往復欠かさずに挨拶しているお地蔵さんに軽く頭を下げて……ガチャで好きなキャラが出ますように、といった雑念が挨拶に混ざってしまうのを止められない。迷い猫を探していたけれど、無事に見つかった家を覗き込み、猫の姿があったら安堵と嫉妬を覚えて進んでいく。私も猫が飼いたい。この間通夜の提灯がかかっていた古い家の前を通り、まだ行ったことのないカフェの看板を今日も通り過ぎる。

 カーブミラーを頼りに危険な交差点をクリアすると、中にゴミ袋の影が見える廃墟を、壁のひび割れから一瞬だけ覗き込む。いつか誰かの目とかち合うかもしれない、そんな期待と恐怖を抱きながら。もし空気がよければマスクをそっと顎まで下ろそう。春の空気をふんだんに味わえるのは花粉症に罹っていない今のうちなのだ。この街の春は、初めてこの街に来た時をいつも思い出させる。実のところ、あの時と変わったのは、今年買い替えた自転車だけなのかもしれない。バイト先まではあと5分程度。正面の家の窓には、80%くらいの確率で出会えるお姫様がいる。窓辺に座りいつもどこかを見ている、知らない人の飼っている黒猫の横顔。ああいうのを深窓の令嬢――猫だから令猫と呼ぶんだ、とこの思い付きをいつかどこかで誰かに言ってやろうとずっと思っていた。今日もつれない、決してこっちを見てくれない黒猫に、存在の矮小さを突き付けられながら駅前の商店街を進む。

 商店街は今日もそこそこの人通りだ。老若男女、世界中の人が歩いている。左右の道にも世界中の料理を扱う店が軒を連ねている。なるほどグローバルだなあ、なんてテキトーに感じながら、残りの道は時間との勝負。いかに信号を回避していくかによって、今日のバイト準備時間の余裕が増えるのだ。少し曲がるたびに顔に打ち付けてくる髪をぺっぺと払いながら、最後の下り坂まで来ると、気持ちがバイトの終了時間に飛び始める。ああ、これからしばらく愛すべきベッド、パソコン、見たい映画、動画、読まなければいけない論文、書かなければいけない論文とはお別れなのだ。よっしゃ。バイトの準備は一瞬。導入したはずが壊れた機械のせいで手書きになったタイムカードの記入を終えると、さっそく店のドアの前に人影が。うちの店の扉が老朽化で重くなったせいで、大抵のお客さんは一回扉に手をかけて動かないことに困惑すると、開けるのを諦めてしまう。自動ドアかと思った、なんて言われたのも一度や二度ではない。「他動ドア」の貼り紙をすべきなのか。

 記念すべき本日一組目のお客さんは、少し派手目のメイクをした背の高い女性と、大学を出たばかりのようにも見える若い青年の二人組。ぱっと見は親子にも見えるが……先に入った青年の腕の隙間にすっと手を差し入れた女性の表情が、二人の関係を物語っている。うちの店はカウンターと個室が少し。二人を希望した個室に案内すると、おしぼりを届ける前に目の前でぴしゃりとドアが閉じられてしまった。……ごゆっくり。ベルで呼ばれ、ファーストオーダーを取れば、しばらくホールの私にやることはない。料理長のほれぼれするような手つきをカウンター越しにぼやっと眺めながら、「仕事」を待つだけの時間。こういう時は妙に耳がさえてしまうものだ。個室に入ったはずの二人の声が、まるで隣の席で話しているかのように聞こえてくる。とは言っても、全部がはっきり聞こえるわけではない。「……ってないわよ」「……さんには……までには」「わかっ……」「でも」ところどころ声量が上がっているのを聞くと、何やら二人にとって大事な話をしているらしいが、私は構うことなくドアを開ける。出来立ての料理は熱いうちに届けなければ。個室の扉を開けた瞬間に思いついた……今日は絶対カラオケに行ってやろう。入ると途端に張り詰める個室内の空気。痛いほどの沈黙の中、辛すぎる薬味の説明までを形式的に終えてドアを閉める。その閉まる扉のほんの少し残った隙間の向こう、あの廃墟のひび割れに期待していた目が。

 ああ、ついに出会ってしまった。

 気が付かなかった。青年の目は驚くほどに深い青をしていた。吸い込まれそうなほど、飲み込まれてしまいそうなほどの青は、あのセイレーンが棲まうと言われている湖の色そのもの。木々からこぼれる、ゆらゆら揺れる木漏れ日が、居酒屋の床を踊っている。いや、木目調だったはずの床はもうそこになく、あるのは暗く湿った地面。陽の光は、その淀んだ茶色を少しでも吸い取ろうとするかのように、いったりきたりしている。遠くで聞こえる鳥の声、聴いたことのないそれが不吉な響きを伴っている。目の前に広がるのは、湖のような青、ではなく、青々と水を湛えて静まり返った湖面だった。ああ、この青を待っていた。私は迷わず地面を蹴り、湖に飛び込んだ。